限りなく、静寂の世界でありたい、この作品が生む空間が。
「メタルピアニズム」「鉄(てっ)鍵(けん)律(りつ)」、これはこの曲集の作者である私が勝手に創ったピアノスタイルにおけるカテゴリである。
以前、「スーパーハッタリ13ピアノエチュード」という練習曲集を制作したが、その曲集では、「より簡単に演奏効果の得れるピアノ」という「ハッタリピアノ」というスタイルを勝手に提案したわけであるが、今回の「メタルピアニズム」とは、「ピアノの【打楽器】としての一面を前面に強く押し出し、且つ、スポーツにも似た精神性を含む身体感覚や理屈抜きの根性と気合いなども同時に要する極めて「熱く」そして且つ「スマート」な【鉄】のようなピアノスタイル」である。
以前の「ハッタリ」のピアニズムも、結局は実はピアノを打楽器的に捉えた奏法が多く、それは、「指が鍛えられていなくても打楽器のように左右の手を交互に速く動かすなどすれば簡単に効果の高い演奏ができる」という事で、「ハッタリ」というカテゴリを提案したわけで、そういう意味では、今回の「メタルピアニズム」は、「ハッタリ」も含むといえる、ともいえよう。
私はドラマーである一面もあり、クラシックピアノとは対極的な音楽も好きで、HR/HM(ハードロック・ヘヴィメタル)というような激烈なジャンルのツーバスドラム(バスドラムを左右に2つ並べて激しく連打したりする)のスタイルが私のドラミングの主なルーツになっているのであるが、今回の「メタルピアニズム」は、まさに、「ドラムのようなピアノ」である。
私自身がドラマーである一面があったからこそ、以前の「ハッタリピアノ」が、「ハッタリ」になり得たのかも知れない。逆にいえば、ドラマーではない人にとっては、あの曲集は決して「ハッタリ」ではないどころか、実は難易度の高いものであったのかも知れない、と、今になって思ったりもする。
私の「ハッタリ」の感覚が「実は他人にとってはハッタリではなかったのでは??」という「発見」は、私自身も予想していなかった事である。
ピアノを弾く人が同時にドラマーでもあるという事はあまりなさそうなので、以前の「ハッタリピアノ」は、ドラマーである私だから「クラシックピアノが巧く弾けなくても、打楽器のような弾き方をすれば簡単に派手な演奏ができる!」という解釈をして、「ハッタリ」というカテゴリにできたといえ、そうなると、私の「ハッタリピアノ」の感覚は私が思っている以上にドラマーではない人にとっては難しく(実際に、「リズムが難しい」とか「(クラシックピアノとは)また違った難しさがある」というような声もいただいた)、それならいっそ、ドラマーでありピアニストでもある私(ピアノの腕は実に中途半端なわけであるが…)だからこそのピアノというカテゴリの中での新ジャンルを勝手に唱えようではないか、という事で、極めて気まぐれで冗談なノリから生まれたのがこの曲集なのである。
よって、この曲集は、実に私の好き放題やりたい放題のものとなっている。
これは「ピアノ弾きTAKAYA」が制作したというよりも、「暴れん坊ツーバスドラマーTAKAYA」が制作した、といえるであろう。
実際、私自身がこの曲集の「ピアノ」を弾いても、「ピアノを弾いている気がしない」のである。
「ピアノではないピアノ」、これが実に爽快である。
クラシックピアノがものすごく苦手な私にとって、「聴いていて爽快で激しくてカッコいいクラシックピアノ曲」をいざ自分が弾くと、弾くので必死で意外と弾いている自分自身は爽快ではなかったりする。
フォルテッシモで激しくて速くて爽快なクラシックピアノ曲を、実際にそれを高ぶるテンションをもってピアノを弾くと、間違いなく音を外す(それは私がピアノが下手だからだろうが・・・)。つまりいくら激しくてもピアノは結局、細かくて神経質で、「自分自身が爽快」にはなりにくい楽器であるといえるであろう。
私がピアノではなくドラムという楽器にも取り付かれたのも、そこらへんである。
高ぶるテンションをそのままぶつけて自分も爽快、鳴る音も爽快、そんなドラムは悩み多き問題児の私にはピッタリである。ドラムは本当に爽快である。
そのドラムの爽快さに極めて近づけるピアノが、この「鉄鍵律」である。
一曲目の「狂(くるい)月(づき)」は、まさにこの曲集を象徴するもので、メタルピアニズムの極みであろう。延々と左右交互に高速に連打される音。弾いていても、聴いていても爽快である。聴く側と弾く側に爽快度の誤差がありがちで、どこか弾く側は細かくて神経のいるピアノだが、弾く側にも聴く側と同等かそれ以上の爽快感と興奮を味わえるものとなったと思う。
最後に、「メタル」は、激しさとともにどこか不思議なクールさがあると思う。また、その激しさの奥には表面的な要素だけにとどまらないエネルギーがあり、いわば、「知的でヤカマシいエリートギャング」とでもいうべきか、熱いのだけれどもその興奮によって精神の軸は決して無駄に振れてはおらず地に足はついていて肝が据わっていて筋が通っている、まるで神が天から裁く雷に込められたエネルギー、そのような絶妙のバランスを保ってもいる、という二面性があるように思う。
故に、プレストで、フォルテッシモで、という中にも「静寂」が存在するという不思議さをもった世界、その激烈な中に見え隠れする静寂の中に、精神の安らぎを身体で覚えていただければ幸いである。
そしてその向こう側に、「本当の安らぎ・本当の『豊かさ』・本当の娯楽」とは一体何だろう?という、今の世の中に最も必要であろうと思えるテーマに再び今一度向き合い、そのスイッチを押すキッカケがこの作品の中に少しでも、この作品を手にしてくださった誰かにとってあったのであれば、それは私にとって非常に喜ばしい事である。
2008.3.24 TAKAYA
楽譜について
以前の「スーパーハッタリ13ピアノエチュード」や、その他の私のピアノソロ作品の楽譜は、ずっと「手書き」で出版をしてきたのだが(コンピュータによる浄書にはない「暖かさ」や、楽譜そのものも「芸術品」の一種であるという考えによるもの)、今回、はじめて、コンピュータで綺麗に譜面を浄書する事に挑戦した。
使用ソフトは、多くの楽譜出版物でも使われているという事で有名な「Finale」という楽譜浄書ソフトである。
使いこなすのがなかなか厄介ではあったが、とても素晴らしいソフトで、作業の手間も当然半端なかったわけであるが、やはりその手間に比例するとても美しい譜面に仕上げる事ができ、アプリケーションソフトの開発者様方には本当に感謝している。
手書き譜の暖かさ云々というこだわりを完全に捨てたわけではなく、今回は、特に「メタルピアニズム」という事で、楽譜も手書きでは再現できない、手書きとはまた別の「機械にしか生めない完璧に整った美しさ」を求め、コンピュータによる楽譜浄書という選択をはじめてとった。
これによって、この「鉄鍵律」は、楽曲だけでなく、楽譜という「芸術品」という観点からも、紛れもない、「メタル」な作品に仕上げる事ができたと思う。
楽譜の表記については、ペダル操作は基本的には表記していない。「ここは是非ノンペダルで」というような場所などではペダル記号を記しているが、ペダル操作は個々の感性で思うように自由にしていただけたらと思う。
臨時記号については、調性の特定しにくいような場面や譜読みが困難になりそうな箇所に、たまに警告の臨時記号(幹音への#・♭・ナチュラル)を記している。
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